前衛短歌に塚本邦雄、寺山修司、岡井隆の著名な三雄がいたように葛原妙子、齋藤史、山中智恵子の三人の女性歌人が、その時代個々に独立した活動をしていたとはいえひとつの系譜を形作っていたのではないかと思う。前衛短歌も三雄もすでに過去の次元にぞくするものでしかないが、この三人の女性歌人の系譜はいまだ生きた系譜として存在する。なぜなら前衛短歌が時代や形式としての短歌芸術の一般的な要請にこたえたものにすぎないのに対して、その系譜は魂としての苛酷な時間の中でひそやかな刻限としての歌をつむぎだし、永遠の方から吹いてくる非時代的な息によってもろもろの事物をみたしていたからだ。高橋正子も百々登美子や佐竹彌生とともにその系譜につらなる存在であった(直接の関与として高橋正子は葛原妙子在籍時の「潮音」に加わり、彼女を師と仰いでいた)。それは畏怖する魂の暗くはりつめた系譜であり、芸術作品としての短歌よりもむしろ魂のドキュメントとしての歌をこいねがっていた。
あしゆらなす
はつなつは不穏にぞ来よ柿の稚葉ふるへつつ嬰児の歯のごとくあれ
こころざし覚めて絶ちたるくるしさの一期よ一会くらき水煙
ここでは一首ごとの無粋でよけいな解釈などとうぜんのように控えるべきだと思う。なぜならこれらの歌じたいがあまりにも雄弁にすべてを物語り、批評し、その息と声によってこの時間と空間にあるものすべてを思うままにうちふるわせているのだから。僕には大学教授や哲学教授のように高橋正子の歌を論じ、分類し、批評する気などもうとうない。ただこの時代に耐えがたいまでに忘却され、まるで理不尽に遺棄された傑出した存在を、底なしのどす黒い闇のよどみからそれ自身にふさわしくあるような明るみへと出したいだけなのだ。