菱川善夫は高橋正子を論じるにあたって〈神経〉ということばを中心にすえている。ことばづかいの点でなにも奇矯なものがあるわけではないが、じっさい彼女の歌に注意深く耳を傾けてみると、それらは文字どおり神経のただ中を泳いできたことばたちという印象を与える。現代において歌うことと病むことはほぼ同義であり、狂うことの危険をおかして書かれたものでない歌など存在しないだろう。それというのも歌う行為においてことばにむかって飛ぶということは、なにもない場所、どんな着地点もないところへ飛ぶことに等しいからだ。ことばとは道具にすぎないというより道具とみなすのさえあやふやな代物だが、そのようなものに対して真実にみあう価をさずけなければならないのだから。文学的手法という姑息さを選ぶのでなく、ことばに神経を通過させみずから実際に精神的に病むことで、高橋正子はことばとの隔絶を隔絶のままに生き抜きながら、現実という平面にことばをあぶり出し裸出させることを可能にしたのだ。
高橋正子は時代によって要請された前衛歌人、古典主義者ではむろんなく、どのような既成概念によってもとらえることの不可能な、早すぎることも遅すぎることもないまさに今ここにある歌人だ。彼女の歌はたえず生きた時間を標的とする―森の中の樹木の静態と稲妻の速度は彼女の中において同一の位相にあり、樹木への雷撃は歌の飽和状態を意味し、そこでは時間が炸裂する。高橋正子の危険なまでの感受性は、つねに全身全霊でのおののきによって髪の毛の一本にいたるまで満たされている。彼女のどの歌のどの言葉も、神経顫動によって串刺しにされていないものなどありはしない。
海溟し
さにづらふ命とや知れ生きのびて病むものの辺に杳き風音
繭を煮るにほひひと日のくるしみのひと日の終わり砂明かりせる
和紙のやうなるあかつきの景まなぶたに泛くごとくせりふたたび睡る
すぐれた歌人や詩人は彼らがラディカルな芸術家や過激な怪物、箍のはずれた狂人であるから素晴らしいのではなく、むしろその潔癖なまでの倫理性が彼らを常人よりもはるかに遠くへ行かせることで比類のない仕事がもたらされるのだ。もっともそのために周囲の無理解と敵意から孤立が深まり、魂の浄化を望んで回心し宗教へおもむくという可能性も大きくなる。あのロートレアモンやアルトーですら一度は回心し、原田禹雄は仏教に傾斜していった。しかし高橋正子はたとえ病の身にあっても宗教的な昇華と精算に傾くことはなく、魂の凄惨さをそれじたいとしてひたむきに受容し、救済と安寧をみずからにこばみとおした。つまり彼女においては歌人である魂と怪物的な闇の領域はつねに紙一重でへだてられていたにすぎず、それが高橋正子の歌のテンションを異様に高めるとともに、そこへ凄惨なものがおのずと露出せずにはおかなかったのだ。
むしろそのためだろう、高橋正子という歌人がこの小さな偏狭な歌の世界に結局のところ受け入れられることがなかったのは。この世界がぜひとも必要としたのは瑕疵なく権力をつかさどる保身にたけた芸術家、そつなく時流をくみとり数々の受賞歴をほこる優等生、今を時めく華麗なスター歌人にすぎず、破綻をきたした狂人の歌、狂人と名指されたものの魂を削ぐようなその歌など誰も望みはしなかったのだ。