今この時において高橋正子は少なくとも三度目の死をむかえるにいたっている。一度目はこの小さな歌の世界で「病めるもの」「狂えるもの」という烙印を受け排除されることによって。二度目は凄惨な魂をその凄惨さにおいてみずからの手でこの世から排除することによって。そして三度目は社会全体が一丸となって危険であるとともに売れ残りの無用ものと判断したその魂を根こそぎ排除することによって―。なにもこのような語りで彼女を悲劇の歌人、社会によって疎外された受難の歌人というありきたりな物語に回収して満足したいのではなく、僕は言いたいのだ、いずれその時は来るだろうと、たえがたく身ぶるいするような静寂、悪臭を放つゲヘナの虚無のただなかから、そんなものからは目を背けたいと誰もが思わざるをえない憤激の地層から立ち上げられる、うしなわれた歌人高橋正子の禍歌の解き放たれる時が―あらゆる短歌賞、あらゆる書店の平積みの歌集、あらゆるSNS短歌を蔑しながら。
涅槃にいまもつとも遠くま耀ふわがほの暗き泥眼の面
雪崩よぶ屋根あかあかとわたる風
ゆきくるる
原罪へ遁れゆくひとつ寒の身に雪むし色のくらき灯ともす
あえていうなら高橋正子がこの世界ではなやかな脚光を浴びることを、僕は望んでいるわけではないのだ。高橋正子はこの世からその存在を根こそぎにされることによって、むしろみずからの歌の正しくあることを立証してみせたのだから。銅像、歌碑、歌会始、紫綬褒章、ベストセラー、書物、結社、歌壇、雑誌、短歌賞、これらのものが歌を生かすために存在していると考えるのは早計だろう。歌はうたわれ歌い継がれることによってその命を確かなものにする、というほど事態はもちろん無邪気で単純なものではない。歌にかかわらず純粋な魂をやどしたあるものがそれ自身の志向性に関与せずに権力にさしかわる時、すくなくともそれらのもつ魂や志向性にはすでに終局がおとずれているとみなす方がより真実に近くあるだろう。無知とおなじくある種の知もまたひとや事物をはなはだしく汚すのだ。