昇汞記

うたのゆくへ

高橋正子 ー最後の歌人ー (終)

 ひとつの短文の中で菱川善夫は高橋正子が原爆について並外れた関心をしめしたというエピソードを紹介している。原爆が純然たるアポカリプスの顕現だったように、高橋正子もアポカリプスとしての身体をもち、アポカリプスとしての短歌史を生きた。高橋正子とはいったい誰だったのか?彼女は単に女性歌人の暗く凄惨な系譜の末裔に属するだけではない。和歌―短歌のゆうに千年をこえる歴史の掉尾をかざるにふさわしい存在、まさに彼女こそが最後の歌人であったのだ。じっさい高橋正子の歌を前にすれば、ニューウェーブ/ポスト・ニューウェーブのおびただしい歌群も猥褻なまでに非存在の単なる商品記号と化してしまうほかない。
 いずれ思いもかけない時に高橋正子の歌はよみがえるだろう、みずからの粉砕された身体の声なき声とともに。万人の鈍重で残酷な沈黙のただ中で、それは僕の骨髄の夜と昼の間で鳴り渡るだろう。娼婦、巫女、魔女としてなどではなく、最後の歌人高橋正子はいずれ最初の歌人として僕たちの前にふたたびたちあらわれることだろう。

  やがて来むみなつき墜桑花ついり絹雲をひきしめやまぬみどりの風よ

 
 後記
 
 なぜまさに歌において歌人高橋正子はひそやかにたけり狂い、そこまで痛ましく奔騰する必要があったのか?それは今もなお歌壇を支配し万人を掌中におさめている、あの空虚の中の空虚、象徴天皇制と呼ばれる慢心した執拗な差別主義の虚無の引力に抗うためでないならば。短歌はいまだ〈天皇〉という空虚な0空間を中心にして機能しているために、それはそのまま蒙昧に卑猥に内部へと閉ざされるほかないのだ。そのことに無自覚であればあるほど、いよいよそれは猥褻な記号としての〈天皇〉に酷似してしまうだろう。