昇汞記

うたのゆくへ

原田禹雄 ―うたのくらきともし火― (1)

前衛短歌、その中でもとりわけ岡井や寺山の歌に感心したことなどぼくにはただの一度もない。前衛短歌の三雄と称される彼らだが、その歌を注意深くよんでみても彼らがそもそもその名にあたいしたのだろうかという疑問すらわいてくる。いや、中井英夫の発言どおり「(…)『前衛短歌』などという安手な言葉は、このとき塚本が書いているように、あるいは初めから書かせることを意図したように、『何という寒々とした、欺瞞に満ちた暗い言葉』としか思えなかった」(『黒衣の短歌史』)なら、それはそれで正解なのかもしれない。ともかく前衛短歌とはよくもわるくも塚本邦男というひとつの名前に集約されてしまうものなのだと、ぼくには思われる(ちなみに中井英夫は「私はといえば、もともと前衛短歌といういい方がいやでならず、その名に値いするのは関西の原田禹雄、山中智恵子の二人だけだと考えていた…」と述べていて、つまりこの二人の歌人に対しては否定的だったようだ)。
 
 短歌とはその額に過酷な荊棘の冠をいただきつつ、日本の詩の未来のために必ず死なねばならぬ受難のフォルムである。このフォルムはある時は堕落したカトリシズムのように人間の魂を偽善の殻に封じこんで永遠に眠らすだろうし、あるときは神をもたぬ現代人に滑稽な偶像と見られ、しかも最後的に信じ得る唯一のスピリチュアルとして、詩として死んだ後、人々の霊の中に蘇生すべきうたではあるまいか。(『定型幻視論』)

塚本邦男のこのことばは、理論、歌論というよりは楽天的ともとらえられうるまったく申し分のない信仰表明にすぎないだろう。「桎梏であるフォルムは恩寵であり、文語は救済であるという素朴な実感」がややイロニーをからめて語られ、みずからの短歌制作が「短歌への憎悪」をもってはじめられるにしても、というよりそういう姿勢じたいが浪漫主義をほぼ全面的に継承していることをあかしているように思える。
 
 種々のかたちでアヴァンギャルドを血肉化し、刻々に深化したリアリズムに発展しつつある現代詩の世界、新興俳句を通過することによって短歌よりは遙かに豊かな、正当な遺産を相続している俳句の世界を考えるとき、僕達は焦燥を感じる(…)(『同』)

戦前短歌のモダニズム運動の敗北史を「大いなる遺産」、つまり負の遺産としてうけついだ塚本が、それを正の遺産として継承させることに成功したかどうか、その是非を論じるよりも塚本が歌人浜田到について書いたもっとも率直なことば、「彼の作品の一つ一つが、僕の作品への批評、というより憐憫でなくてなんだろう」を想起するだけでぼくには十分な気がする。

おそらく前衛短歌というものは意識的というより無意識にちかいかたちで、たえず短歌の不可能性という問題にいきあたっていたように思える。だからこそそれは後ろむきの運動としてあったのであり、まちがってもそれじたいが未来へとつながっていくようなものではなかったのだ。前衛短歌は近代短歌とひとしくはじまりであると同時におわりでもある、そういうものとしてあるほかなかった。なぜならそれは時代に抵抗するものとしてよりも、たえず時流にのるもの本質的に時の流れにけっしてさからわないものとしてあったのだから。アララギ派がさかえた時代に短歌は自然をうつす鏡となったが、現代において短歌は時代を従順にうつす鏡である。前衛短歌もまたその例外ではないのだ。